レトロビル探訪 芝川ビル

芝川ビルを建てた芝川又四郎は、明治161883)年に大阪・伏見町で、芝川又右衛
門の次男として誕生しました。
 芝川家は又四郎の曽祖父にあたる芝川新助が唐物商(欧米品の輸入業)を興し、商
売は大いに盛んでしたが、
又四郎の祖父・芝川又平は、変動に満ちた近代社会の危険性をいちはやく感じ取
り、
リスクの高い唐物商を廃業、大阪の千島、千歳、加賀屋の三新田を購入し、土地経
営というより確実な資産運用に転じます。
 
又四郎も生野、豊能郡大阪府)、六甲、多田村、長尾村大野(兵庫県)、
和歌山県や宮崎県、鹿児島県など各地の土地を購入したほか、建築にも興味を持
ち、
家督を継いだ大正121923)年の前後には、満州、青島、上海、アメリカを旅行
し、建築と土地の視察を行っています。
 
昭和21927)年、南米マヤ・インカの装飾を纏った芝川ビルが竣工します。
 
芝川ビルを建てた芝川又四郎は、かねてから店を不燃性の建物に建替えたいと思っ
ていました。
そんな折、大阪倶楽部において建築家の片岡安のスピーチを聞き、鉄筋コンクリー
トが耐震・耐火性に優れていることを知り、
鉄筋コンクリートへの建て替えを決意したと言います。
こうして建設された芝川ビルは、耐震・耐火性に細心の注意が払われており、その
意気込みは、現在も建物の随所に見ることができます。
 
イメージ 1
芝川ビルは、自家用の使用だけではまだ余裕があったため、教育に関心を持ってい
た又四郎の意向で「芝蘭社家政学園」という花嫁学校として使われることになりま
す。
「芝蘭社家政学園」では、又四郎の義妹の芝川まき(千島土地㈱、百又㈱ 現社
長・芝川能一の祖母)が園長を務め、
当時、帝塚山学院の学長であった庄野貞一(さだいち)氏を学監*に迎えて、洋
裁、和裁、習字、生け花、茶道、割烹など多彩な授業を開講する私学として
、自由な構想で教育が行われました。
昭和41929)年の開校から昭和181943)年の閉校までに、関西一円の名門女学校
を卒業した3,000人を超えるお嬢さんたち、
いわゆる「いとはん」たちが学んだ「芝蘭社家政学園」は、現在の女子短大のはし
りであったとも言われています。
 
先日の新聞にこの「いとはん」の方の1人の写真が載っていて興味深かったです。
 
 
近代的なビルの合間にこんな昔の建物が遜色なく建っていることに
感動を覚えますね。